思い立ったが吉日


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「ありがとう」


 私と緒方先輩が初めて出会ったのは、高校の図書館だった。
 私は勉強よりも読書が好きで、時間があれば図書館にこもっていた。
 放課後、今日も変わらず、おんぼろでひと気のない旧校舎の片隅にひっそりと存在している図書館へと足を運んだ。図書館の入口の扉を横に引くと、からからと乾いた音がする。この音を聞くと、妙な安堵を覚える。
 いつものように貸出カウンターに視線をやると、定年退職後に司書として再就職した内本先生が少し困ったような笑顔を向けてきた。
 いつもなら片手を軽く上げてくるのに、どうしたのだろうかと思って疑問に思いつつも館内に視線をやり、「指定席」を見て、内本先生の困惑した表情の原因を知ることとなった。

「いきなり入ってきて、止める間もなくあそこに座っていきなり寝てしまったんだよ」

 私が聞く前に内本先生は経緯を説明してくれた。
 見知らぬ男が寝入っているその席は、私の「指定席」だ。たまに来る利用者がその席に座ろうとしたら内本先生はいつもやんわりと別の席に移るように促してくれているらしかった。
 というのも、その席からは中庭がよく見え、眺めがよい。人気の席なのに関わらず、いくら図書館がひと気がない、と言ってもそれなりに利用者があるのにいつ行っても空いているのはきっと内本先生の配慮なのだ。
 中庭に生えている太い幹を持ったイチョウから黄色い葉がはらはらと落ちる様を見ながらお気に入りの本を読もうと思っていのに、かなり不愉快だった。
 しかし、気持ちよさそうに寝ている人を起こしてまでその席を奪いたいと思わなかったので、一瞥するだけにして他の席に座った。

「川根さんはほんと、本が好きだね」

 ちょうど章が終わったところで話しかけられ、ふと視線を上げると、目の前の席に優しい笑顔の内本先生が座っていた。

「わたしは今までずっと教師をしていたから、立場上は生徒たちに『勉強しろ』と言って来たけれど、本当はあなたのようにたくさん本を読んでほしいと思っていたのだよ」

 私は学校のいわゆる「お勉強」というものは得意ではない。どちらかというと、後ろから数えた方が早い「落ちこぼれ」の部類に入っている。
 去年、内本先生に古文を習っていた。先生の授業は面白かったけど、成績は芳しくなかった。

「私、勉強は得意じゃないから」

 少し自嘲気味につぶやいた。

「そうですね」

 内本先生は楽しそうに私の言葉に同意した。

「だけど、」

 先生はこほんと一つ咳払いをして、

「学校の勉強がすべてではないですよ。それよりも、より世界を知ることが大切なんです。それには……読書というのは一つの手段です」

 その言葉は私をフォローしてくれているようで、ちょっとうれしかった。



 読書に耽っていると、外から少し間延びした「ゆうやけこやけ」が聞こえてきた。視線を上げ、カウンターの上に掛けてある時計を見ると、六時をさしていた。
 私は本にしおりを挟んで閉じて、かばんに片づけた。椅子から立ちあがって大きく伸びをしながらふと「指定席」を見ると、眠りこけていた人は目を覚ましたようで身じろぎして身体を起こし、背もたれにもたれかかって大きく伸びをした。そこでふと、目が合った。

「あ! ようやく来たな!」

 私はまさかそこで目が合うと思っていなかったため、心の準備ができていなくて心臓がどきんと跳ねたのに、その人は私を探していたような口ぶりで、さらに動悸が激しくなった。口から心臓が飛び出しそうだ。

「探していたんだよ!」

 全然知らない人にいきなり「探していた」なんて言われて、私はどう反応を返せばいいのか分からない。自分を守るようにかばんを抱え、後ろへ引き気味になりながら、その人を眼鏡越しに睨みつける。

「こういう内容の本、知らないか?」

 私が睨んでいることなんてお構いなしにその人は椅子から立ち上がり、机にもたれるようにしながら私の元までやってきて、メモ用紙を押し付けてきた。

「あんたが図書館の主、と聞いて待っていたんだけど」

 ……図書館の主?
 だれが言ったのか知らないが、それは間違ってないかもしれない。
 高校に入ってからずっと、時間の許す限り図書館で過ごし、整理されていなかった書棚を整えたのは、私だ。
 しかし……どうして私はこの見知らぬ人に「あんた」呼ばわりされないといけないのだろうか。目の前に立つ男の人はどうやら三年生のようだ。制服の襟についたバッジが物語っていた。

「ところであなたはだれなの?」

 私のこの問いかけに、男の人は目を見開き、

「お、おれを知らないのか?」
「知らないもなにも、私、あなたとは初対面ですが?」

 私のその言葉に衝撃を受けたようで、彼は放心状態になっていた。

「川根さん、その人は緒方くんだよ」

 内本先生はカウンターから出て来て説明をしてくれたが、名前を聞いてもだれなのか分からなかった。

「有名な人なんですか?」
「彼を知らないのですか?」

 私はまったく知らなかったので、素直にうなずいた。

「マジかよ!」

 彼はそう一言残して、ものすごい勢いで図書館を後にした。

「あの……!」

 渡されたメモ用紙を返そうとしたけど、すでに遅かった。

「私……どうしたらいいのでしょうか」

 内本先生はしばらく悩んでいたようだったが、少ししてぽん、と手を叩いてにっこりと私を見た。

「そのメモに書かれている本を見つけて渡しに行けばいいと思うよ」

 内本先生は今の彼が緒方悠介(ゆうすけ)という名で三年一組だということを教えてくれた。

   *   *

 それから三日間、私は緒方先輩に渡されたメモを片手に、図書館中を見て回った。それと同時に、緒方先輩が何者かも調べた。
 緒方先輩は、輝かしい経歴を持ったスプリンター(短距離走者)だったようだ。
 過去形なのは、数か月前に事故に遭い、選手生命を断たれてしまったという。将来を有望視されていただけに、言葉では言い表せない葛藤、苦悩があったのだろう。最近になってようやく登校して来られるようになったという話だった。
 初めて会った時、机にもたれるようにして歩いてきたり、走り去る時も足を引きずるようにしていたので疑問に思っていたのだが、そういうことだったのか、と知った。
 しかも、緒方先輩は私と違って勉強もできる人みたいだ。スポーツ一辺倒の筋肉馬鹿、ではないらしい。顔もそこそこだし、身長も高いし、彼に憧れを抱く女の子は多い。
 学校では知らない人がいないのではないか、というくらい有名な人のようだ。緒方先輩も自分のことを知らない人がいるとは思っていなかったのだろう。ちょっと自意識過剰なような気もしたけれど、それだけ華々しい人だったのだ。図書館にこもりっきりで地味で暗い私なんかとは対照的な存在だ。
 そんな人がどうしていきなり図書館に……?
 疑問に思ったが、今まで陸上に打ち込んでいた時間をもてあまして本でも読んでみようと思ったのかもしれない、と思い直して思いあたるところを探していたのだが……。
 ない、のだ。
 メモに書かれている内容は、この図書館で目にしたことのあるものなのだ。思いあたるタイトルを探し、中を読むのだが……どれも違う。そもそもがこのメモに書かれている内容が、とても曖昧だ。本に精通していなければきっと、探し出せない。
 だれかが借りているのかもしれない。本の貸し出し期間は一週間だ。来週また、本が返ってきたと思われる時期に探し出そう。
 私は一度諦め、「指定席」に座ってイチョウの葉が落ちる様を眼の端にとらえながらかばんからこの間読みかけていた本を取りだし……唖然とした。
 なんと、あんなに探していた本が、自分の手元にあったのだ。
 メモを見て、つい最近、読んだような気がすると思っていたのは……そういうことだったのか。

「ばっかみたい」

 声に出してみると、ますます自分が馬鹿なことに気がついた。
 数ある本の中でもお気に入りの一冊。落ち込んだ時や元気がない時はこれを読んで元気をもらっている。もちろん、それだけ気に入っている本なので家にもあるのだが、なんとなく図書館のこの本は同じものだと分かっていても繰り返し借りてしまう。
 私は本とメモを抱え、緒方先輩のクラスへと向かった。クラブ活動をしていないらしいからもういないかもしれない、と思ったけど、一刻も早く渡したくて、はやる気持ちを押さえながら足早に移動した。
 三年一組に行くと、緒方先輩はちょうど帰ろうと教室を出たところだったようだ。ばったりと出会い、彼は私の顔を見るなり一瞬、ものすごく嫌そうな表情を浮かべた。悪いことをしたな、とは思ったものの、本当にあの時は知らなかったのだ。
 私は胸に抱えていた本を緒方先輩に向かって突きつけた。メモ用紙と本を見て、彼は驚くほど顔をほころばせた。

「見つけてくれたの? ありがとう、助かったよ!」

 満面の笑みで彼は本を受け取り、うれしそうに本をぱらぱらとめくっていた。

「そうそう、これだよ! 内容は覚えていたんだけど、作者もタイトルも思い出せなくて……困っていたんだ。もう一度読みたいと思っていたから。ありがとう!」

 普段、あまり人と話さない上に男の人、というだけで緊張しているのに、頬を上気させて喜んでいる緒方先輩を見ていたら、会ったらこの間のお詫びを言おうと準備していた言葉さえ紡げず、私はその場を逃げるようにして図書館へと戻った。

 それからというもの、緒方先輩はマニア受けするような本の内容ばかりをメモに書き、気まぐれのように私の元へとやってきた。それは私への挑戦状のように思え、必死に探した。
 そんなよくわからない関係は、彼が高校を卒業することで終了した。
 うわさ好きな女の子たちの話によると、彼はどこか有名な大学に入ったらしい。
 私は変わらず図書館に通った。三年生になり、進路を決めなくてはならないということになり……本が大好きだということで司書になりたくて大学へ進学することに決めた。受験勉強は過酷だったが、どうにか志望した大学に入ることができ、たまたま空きの出来たので司書として就職することができた。
 その間、なぜか私の元にさまざまな人から緒方先輩情報が入ってきた。彼と私の関係は「先輩」と「後輩」以上でも以下でもないのに、院に入っただの卒業してどこそこに就職した、といった近況を聞いた。

   *   *

「よぉ、川根」

 勤務先の図書館で本を棚に戻していたら、いきなり後ろから声をかけられた。聞き覚えがある声。だけどすぐに名前を思い出せない。本を両手に抱えたまま、振り返る。
 オールバックにスーツ姿の男性。見覚えがあるようなないような顔。

「あの……」
「緒方だよ」

 初対面の時のことを思い出したのか、私の「だれですか」という質問より早く、彼は名乗った。
 最後に会ったのは確か、卒業式の一週間前。その時、彼は私がようやく探し当てた本を読み終わり、返却しに来た時だった。
 もう少しで卒業ですね、おめでとうございます。と社交辞令を述べたことを思い出した。

「やっぱり司書になったのか」

 緒方先輩は私が抱えている本を奪い、本棚にひょいひょいと片付けている。

「適当に入れないでください!」

 私の抗議に緒方先輩はあの頃と変わらない笑顔を私に向けて、悪い悪い、とまったく悪びれてない風に口にして、本棚に入れた本を手元に戻し、視線をこちらに向けてきた。

「仕事、何時に終わる?」
「あの……」
「せっかくこうやって久しぶりに会えたんだし、夕食でも一緒に食べに行こうよ」

 緒方先輩に半ば強引に誘われ、懐かしさも手伝い、同意していた。
 仕事ですから、というのに私が抱えていた本は返してくれず、手元の本がなくなるまで緒方先輩はずっと私の後ろにひっついて返却作業を手伝ってくれた。

 仕事が終わり、図書館の外に出ると、緒方先輩は片手をあげ、近寄ってきた。

「待っていたんですか?」
「ああ。思ったより仕事が早く片付いたから。たまにはのんびりと」

 季節はちょうど、緒方先輩と図書館で初めて会った時と同じ頃。この図書館の入口にもあの学校の中庭に生えているほどではないけど同じようにイチョウの木があった。黄色い葉がひらひらと舞い落ち、私は思わずそのさまに見惚れていた。

「川根は食べられないものはないか?」

 特に好き嫌いはなかったのでないと答えると、緒方先輩はうれしそうに、最近開拓したお気に入りのお店があるからそこに行こう、と誘ってきた。私は素直に従った。
 食事をしながら、お互いの近況を語り合った。

「そうだ、川根。内本先生の家、どこか知らないか?」

 年賀状を毎年やり取りしているので住所は知っている、というと、緒方先輩は眉をひそめて、最近、聞いた話なんだが、という前提を置いて口を開いた。

「今年の三月で図書館の司書を辞めたらしいんだが、知っているか?」

 年賀状にそんなことが書いてあったことを知っていたので、辞める前に高校に顔出しをしようと思っていたのだが、忙しくて行けなかったという話をすると、

「辞めた理由というのが、体調が思わしくないから、と聞いたんだが……」

 それは知らなかったので素直にそう言うと、

「日曜日にでも内本先生の家に行ってみないか?」

 私はその誘いがありがたかった。一人で行くことに躊躇していたからだ。
 待ち合わせの場所と時間を決めて、その日は緒方先輩と別れた。

   *   *

 日曜日、待ち合わせの場所に行くと、時間前なのに、緒方先輩はもう来ていた。
 住所は知っていたが電話番号は知らなくて、内本先生に連絡ができてない。

「いきなり訪ねたら迷惑じゃないかしら?」
「大丈夫だろう。前に一度、クラスメイトが大勢で押し掛けたらしいぜ」

 緒方先輩はその時の話を思い出したのか笑い、どんなことがあったのか教えてくれた。
 その話が面白くて、くすくす笑いながら地図を片手に歩いていたら、あっという間に着いた。
 「内本」と書かれた表札のある立派な一軒家。私はしり込みしてしまったが、先輩は躊躇することなくインターホンを押した。しばらくの間、応答がなかった。

「日曜日だし……やっぱりどこかにお出かけ」
「しっ!」

 先輩に静かにするように言われた。

『はい』

 か細い女性の声がインターホンから聞こえた。
 緒方先輩は身分を名乗り、どうぞ、と中に入ってくるように指示があった。私たちは門を開けて、玄関を開けて中へと入った。

「お邪魔します」

 先輩は迷いを見せず中に入っていくので私も後を追った。
 奥から、白髪の着物を着た女性が出てきた。きっと彼女は内本先生の奥さんなのだろう。

「元生徒さんが来てくださるのは、何年ぶりでしょう。どうぞ、おあがりください。主人はこちらにおりますので」

 私は奥さんに手土産を渡し、案内されるまま部屋へと赴く。そこはどうやら、寝室のようだった。

「あなた、お客さまよ」

 室内はカーテンが閉められ、薄暗く、なんだかとても嫌な臭いがこもっていた。

「あぁ」

 奥さんは部屋の明かりをつけてくれた。私は目の前の光景に言葉が出なかった。
 高校を卒業して何年経ったのだろう。卒業式の日、お別れを言いに行った時の先生とはまったく違う。力なく布団の上に横たわっていた。あの頃も確かに白髪まじりだったが、今は真っ白になり、しわもかなり増え、そして別人のようにやせ細っていた。

「緒方くんと川根さんか……。元気そうでなによりだ」

 無理して起き上がろうとする内本先生に起きなくていいからと緒方先輩は止め、お久しぶりです、とにこやかに会話している。

「高校を卒業してから何年ぶりですか?」

 二人の会話を聞きながら、私は溢れそうになる涙をこらえるのが必死だった。

 あまり長居しても、と十分ほどで内本先生宅を辞した。
 玄関を出て、しばらく歩いたところで私は耐えられなくなって、立ち止まって泣いてしまった。

「おいおい、こんなところで泣くなよ!」

 緒方先輩は困ったように頭をかき、おろおろしていた。先輩を困らせてしまっていることは充分自覚していたが、次から次へとあふれる涙を止めるすべを私は知らなかった。


 先輩と二人で訪問してそれほどしないで、内本先生は遠い国に旅立っていった。
 お別れ会に出席し、そこで緒方先輩を見かけたが、あまりの悲しさに声をかけることができなかった。
 そうしてもう一つ、声をかけられなかった理由があった。それは、結婚前までいった彼女にこっぴどく振られてかなり落ち込んで荒れている、という話を聞いていたせいもあった。

 一方の私は、相変わらず本が恋人、という状況だった。
 恋に恋することもなく──ううん、きっと違うのだ。
 私は先輩に図書館で再会してから、自覚した。
 私は先輩のことが好きだ。それがいつからか、は分からない。気がついたら、好きになっていた。
 先輩が彼女に振られた、という話を聞き、自分の中に昏い気持ちがあることに気がつき、声が掛けられなかった。それを先輩に知られたくなかったからだ。
 いつも彼は派手だった。高校の時から様々な女の子とくっついては別れ、を繰り返していた。
 その話を耳にする度、心の奥底に疼く昏い気持ちにふたをしてきた。
 付き合いだした、という話を聞くと早く別れてしまえと呪い、別れたという話を聞いたら安堵していた。私なんかが彼の横に立てる機会なんて巡ってくるわけないのに。
 そして、彼に告白してきた女の子たちに嫉妬していた。
 私は臆病者で、彼に告白して拒否されるのがものすごく怖かったのだ。先輩に告白して、断わられたら……高校のあの思い出をすべて否定されるようで。

   *   *

 そんな気持ちを抱えたまま、一年経った。

「川根、元気か?」

 いつかの時と同じように、緒方先輩は私が勤務している図書館の前に立っていた。肩に上から降ってきたたくさんの黄色いイチョウを乗せて。

「おまえ、ちょっとやつれてないか? 仕事、大変なのか?」

 私のことを気にかけてくれている言葉に、そんなのだれに対しても言っている言葉だと分かっていながらもうれしさのあまり、涙があふれてきた。

「どこか調子が悪いのか?」

 先輩の戸惑った声に私は否定のために首を横に振るのが精いっぱいだった。

 先輩に連れられ、近くの公園まで来た。自動販売機で飲み物を買ってきてくれ、手渡された。
 無言で受け取り、プルタブを開けようとしたら、すでに空いていることに気がつき、驚いて視線を上げた。そこには、今まで見たことのないほどやさしくて心配そうな緒方先輩の顔があった。
 ありがとうと言いたいのに言葉が出なくて、私は飲み物と一緒に言葉を飲み込んでしまった。

「ほんと、びっくりした」

 困ったような表情の緒方先輩を見て、なにか言わなきゃ、と思うけど、いきなり現れた緒方先輩に戸惑い、必死に言葉を考えるけど、なにも思い浮かばない。

「どうしたんだ、仕事が辛いのか? それとも、他に辛いことでもあったのか?」

 そういう類の涙ではなかったので、私は再度、首を横に振った。

「おれ、実は……」

 先輩は飲み物を持っていない反対の手で自分の後ろ頭をかきながら、

「去年……結婚しようと約束した女性にこっぴどく振られたんだよ。あはは、情けないよな」

 私は、いきなりそんな話をはじめた先輩になんと言えば分からなくて、思わず穴があきそうなくらい、見つめてしまった。

「死にたくなるほどの絶望に襲われたんだ。一生、ともに歩んでいこうと心に決め、プロポーズした彼女に……振られたんだ。すべてを否定されたような錯覚に陥ったよ」

 先輩は苦しそうに笑った。

「毎日、命を消費するだけのような生活を送っていた。自らこの生を終わらせようか……そこまで考えて、内本先生とおまえを思い出して、できなかった。自分に与えられた命は、きちんとまっとうしなくてはならないんだ、と気がついたんだ。どんなに辛くても悲しくても」

 その言葉は、先輩が一番最初に捜索依頼を出してきた本の中の一節だった。

『どんなに辛くても悲しくても、人は生きなくてはならない』

 先輩の告白に、私は恥ずかしくなった。
 先輩への恋心を自覚してからというもの、その気持ちは徐々に私をむしばんだ。当たって砕けてもいないのに、砕ける前から私はあたった時の痛みを想像して、ずっと思い悩んだ。
 どちらから告白したのかは分からない。だけど、先輩は彼女とともに人生を歩むことを考え、自らプロポーズしたのだろう。
 目の前にいる先輩は、彼女に正面から向き合った。当たって……砕けて、だけど先輩はその痛みに耐え、乗り越え、今、目の前でこうして笑っている。
 生涯を共にしようと考えていた彼女に振られ、否定され、それでも生きていた。
 その前にも彼は不慮の事故で将来の希望を踏みつぶされた。絶望を乗り越え、彼はしっかりと自らの足で人生を歩んでいる。
 先輩に比べると、私はなんとつまらない存在なのだろう。好きなことだけをして生きて来て、結果が分かりきっていることを避けて生きてきた。
 目の前にずっと想っていた人がいる。今、伝えなければ、私はこのまま駄目なままなのだ。
 まずは一歩、踏み出さなければ。

「先輩、」
「川根、」

 私と先輩は、同時に声を発した。

「あ……先輩から」
「いや、川根から」

 私たち二人の間に、妙な沈黙が横たわった。

「先輩から、どうぞ」

 やっぱり勇気が出なくて、先輩に先にどうぞ、と促した。

「川根、おれ……おまえのこと」

 私はその続きを聞きたいけれど怖くて、半ば叫ぶように、先輩の声にかぶせるように口を開いた。

「あの、私、先輩のその大好きだった彼女の代わりにはならないかもしれないですけど……」

 驚いた表情で先輩は私の顔を見て、ふっとやさしく微笑んだ。

「代わりなんかじゃない! 代わりになんてなるわけないじゃないか! おれは……ずっと、川根のことが好きだったんだ!」

 信じられなくて、先ほど止まったはずの涙がまたあふれてきた。

「ありがとう……先輩」

 勇気を出して言って、よかった。
 大きな勇気と自信を与えてくれた先輩に、ありがとう。
 私を好きになってくれて、ありがとう。

【おわり】


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