彼女に捧げるエチュード【一】

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 ──夏休みの学校は、独特の空気が流れていると思う。

 夏休みの初日、冷房がよく効いた個人レッスン室でふーっと一息をついたタイミングで、ドアがノックされた。
 わたしがこの部屋にいるということを知っているのは数人しかいない。
 そしてこの部屋に訪れるのは、一人しかいない。

「あー、悪い。ちょっと寝坊した」
「そんなことだと思ってましたから、先に始めてました」
「おまえな、言うようになったな」

 わたしの軽口に、この学校の音楽教諭である小田桐響おだぎり ひびきは額に浮かぶ汗を拭いながら、呆れたようにそう返してきた。

「だって、先生がそう接してほしいって言ってきたんじゃないですか」
「まぁ、そうなんだが」

 小田桐先生は複雑な表情のまま、ピアノに立てかけている譜面に視線を向けた。

「それで……。なんだってピアノなんてやったことのないおまえがいきなりショパンの『別れの曲』を教えてくれなんだ?」
「……それは、わたしがこの曲を弾けるようになったら教えるって約束です。途中で聞くのは違反ですよ」
「ったく、もったいぶりやがって。……まあ、いい。それで?」
「それで、とは?」
「どれだけ弾けるようになった?」
「ええ、まあ。お察しのとおりです」

 ピアノの前に座ったまま、わたしはお手上げと言わんばかりに肩を竦めた。

「楽譜の素読みをしたときは音符が読めていたから……あとは音符と鍵盤の一致と運指が問題か」
「うんし……ってなんですか」
「まずはそこからかよ!」

 という小田桐先生の突っ込みに、わたしは再度、肩を竦めた。

「運指というのはだな、ピアノなどの鍵盤楽器を弾く際にどうやればスムーズに弾けるかという指の使い方のことを言うんだよ。運動の運に指と書く」
「あぁ、なるほど!」

 小田桐先生はわたしの反応に大きなため息を吐いた。

「安請け合いしすぎたかな、俺……」

 そしてまた、ため息を吐いた。

     *

 学校のピアノ個人レッスン室でこんなやりとりをしているのは、今年、この高校に入学した火浦由乃(ひうら ゆの)と、前述のとおり、この学校の音楽教諭の小田桐響である。
 そもそもわたしがやったことのないピアノの、しかも難易度の高い曲を教えてほしいと小田桐先生にお願いをしたのは、もちろん理由があってのことなんだけど……。
 まさか小田桐先生が引き受けてくれるとは思っていなくて、今でも夢ではないのかと思っている。

「おい、火浦。聞いてるのか」
「あ、はい。すみません。混乱してます」
「……その調子で夏休みが終わるまでに弾けるようになるのか?」
「それは教える側の問題ですね」
「はぁ?」
「わたしは最初に『簡単な曲しか弾けません』と言いました」
「あぁ、言ったな。で、持ってきた『別れの曲』の楽譜を素読みしろと言ったら読めたから、まあ、いいかと思ったんだが」
「楽譜を読むくらいならできますよ。選択授業で音楽を選んだくらいですから」

 わたしの返しに小田桐先生はまたもや盛大なため息を吐いた。

「そういえば、一年生はまだ楽器をやってないんだよな」
「そうですよ」

 それは音楽教諭である小田桐先生が一番知っていることだ。

「来年からは一学期に楽器の演奏を入れることにする」
「えええっ! そんなの、勝手に変えていいんですか?」
「いいんだよ。またおまえみたいなのが現れたら俺が辛い」

 小田桐先生のその一言に、わたしのこの行動が迷惑だったことを改めて知ってずきりと心が痛んだけれど、どんなときでも笑顔でいるようにと鍛えられたわたしの表情筋はにっこりと口角を上げていた。我ながら恐ろしい。

「わたしみたいな人はそうそういないと思いますよ?」
「それを自分で言うか」
「お願いしたときに開口一番に言われた言葉ですからね」

 自分で言っておきながらなんだけど、かなり痛い。
 だけど、目的を達成させるにはどうしても小田桐先生の力が必要なのだ。

「まぁ、いい。俺は暇を持て余しているおまえとは違って、それなりに忙しいからな。一週間だけ付き合ってやる」
「一週間で弾けるようになると信じていいですね?」
「それはおまえ次第だ」

 それは要するに、小田桐先生からの挑戦状と受けていいのだろうか。

「わたし、根性だけはありますよ?」

 少しの間があった後、小田桐先生は短く返してきた。

「──知ってる」

 その一言に、この人はわたしの過去を知っているということが分かり、またもや胸に痛みが走った。だけど顔を上げて、小田桐先生へと笑みを向けた。

「それなら、お願いしますね?」
「……ったく」

 四度目のため息を吐き、小田桐先生はわたしを見下ろした。
 眼鏡越しの瞳は思っているよりも黒くて、それでいて、真剣だった。

「それじゃあ、始めるぞ」
「はい、お願いします」

 小田桐先生から譜面、それからピアノの鍵盤へと視線を向けた。

「それ」
「……へ?」
「まず、譜面を暗記しろ」
「はへっ?」

 思いもよらないことを言われ、小田桐先生へと視線を向けると、わたしを見ていなかった。

「すぐには無理だろうから、まあ、今日くらいは譜面を見てもいい」
「今日だけ?」
「おまえな、プロの演奏家は譜面見ないヤツのが多いぞ」
「いえわたし、別にプロになりたいわけでは」
「四の五の言わない。一曲くらい、覚えろ」
「あ……はい」

 なんでここでプロの話を引き合いに出すのよ、という反発を覚えたけれど、とりあえずここは大人しく引き下がっておこう。

「まずは右手のメロディラインからだな」
「はい」

 右手親指を最初の音である「ド」へと置き、指に力を入れようとしたのだが。

「待て。曲を弾く前に、ドレミファソラシドと弾けるか?」
「え……と?」

 弾けるかと聞かれて、実践してみせる。
 ドレミファソと親指から小指まで弾いた後、あれと首を傾げた。

「先生、弾けませんけど」
「おまえな、弾けるわけないだろう、それで! ドレミまで弾いた後、親指を人差し指と中指の下にくぐらせて親指でファを弾く!」
「え……と、はい」

 言われるままにドレミまで弾き、親指をドから離して指をくぐらせようとしたのだけど、上手くいかない。

「まさかと思うが、基本もできてない?」
「いえ、そのまさかです」

 わたしの返しに、小田桐先生はアップライトピアノの上の部分に手を突いた。

「おま……なんだよ、そのでたらめ」
「なんでですか」
「どうして譜面はすらすら読めるのに、弾けないんだよ。それ、おかしいだろう!」
「そうなんですか?」
「ピアノ以外の楽器をやっていたのか?」
「いいえ」
「合唱か?」
「それもないですけど、姉がピアノをやってまして、一緒に譜面を読むのはしてましたね」

 そう返せば小田桐先生の返事は分かっていたから黙っていたのだけど、ぽろりとこぼした後、しまったと思ったのは後の祭り。

「それなら──」
「姉に教えてもらえと言うと思いますが」
「先回りかよ」

 ピアノの鍵盤から小田桐先生へと視線を向ける。小田桐先生はやっぱり、明後日の方向を向いていた。

「死人には教えてもらえませんから」
「あ……」

 わたしの一言に、小田桐先生はなにか符合するものがあったらしい。

「おまえ、火浦って、あの火浦の妹か!」
「そうですよ。てっきり知っているものと」

 と返せば、小田桐先生はやっぱり明後日の方向を向いたまま、苦い表情を浮かべた。

「火浦なんて珍しい名字だから、分かっているとばかり思ってました」
「──今の今まで、忘れていた。……いや、あまりにも悲しい出来事だったから、記憶を封印していたと言えばいいか」

 小田桐先生の返事に、部屋が静まる。
 鍵盤から指を離し、スカートの上で両手を握りしめた。

「だから……姉の命日に、姉の好きだった曲を弾いてあげたくて」

 そう口にして、これは姉が好きだった『別れの曲』が弾けるようになってから先生に伝えることだったと思い出し、本日二度目の失言に、うなだれた。

     *

 我ながら重たい理由だなと思ったから弾けるようになるまで黙っていようとしたのに、ぽろりと口にしてしまった。
 せっかく引き受けてくれたのに、やっぱり止めると言われかねないと思って言い訳をしようと思ったら、先に小田桐先生が口を開いた。

「夏休み前に聞いたんだろう、学校の七不思議」
「──え?」
「雨の日の夕暮れ時に音楽室から『別れの曲』が聞こえてくる、と」

 その質問に、わたしは小さくうなずいた。

「あれな、俺が弾いてる──と言ったら信じてくれるか?」

 小田桐先生の少しおどけた口調に、しかし、わたしは首を振った。
 雨の日の夕方にあれを聞いていなければ小田桐先生の言葉を信じていたけれど、わたしは聞いてしまったのだ。
 あれは確実に──死んだ姉が弾いている。

「姉が、弾いてました」
「──だけど、火浦の姉さんは」
「四年前に、亡くなってます」
「それならば、不可能──だろう」

 ごくりと小田桐先生が息をのむ音が聞こえるほど、レッスン室内は静けさに包まれていた。

「わたしも聞くまではだれかのいたずらか、よくある噂話だと思っていたんです。だけど……」

 あの演奏は姉でしかあり得なかったのだ。
 聞いてしまったわたしは、震えが走り──情けないことに腰を抜かした。

「姉さんが弾いているという確信がある?」
「ありますよ。だってあの日、小田桐先生は音楽室にいなかったのに中から『別れの曲』が聞こえましたし、それに」

 そこまで言って、その先を口にするのを躊躇した。これは言ってもいいのだろうか。
 しばし悩んで、小田桐先生に確認の質問をすることにした。

「先生は、あれを聞いたことがありますか」

 いつか聞かれると思っていたらしい小田桐先生は、首を振った。

「よく聞かれるんだが、実は一度も聞いたことがない」
「……え?」
「しかも雨の日の夕暮れ時に聞こえるというのも、四月に入ってから聞かれるようになった『新しい七不思議』だ」

 小田桐先生はようやくわたしへ視線を向けてきた。眼鏡の奥の瞳は鋭くわたしを見下ろしていた。

「火浦、正直に答えろ。あの演奏テープ、おまえの仕業だろう?」
「演奏……テープ?」

 聞いたことがないと言っているのに、どうしてあれを録音されたものだと小田桐先生は断言しているのだろうか。

「音楽室には未だにカセットテープを再生することができるデッキがある」
「あの……カセットテープってなんですか」

 その質問に、小田桐先生は目を見開いてわたしをみた。

「カセットテープを知らないのか?」
「はい」

 わたしの返事に小田桐先生はがっくりとうなだれ、

「そりゃあ、これだけ歳が違えばなあ。ジェネレーションギャップだなあ」

 という呟きが聞こえた。

「それでは、レコードは知ってるか?」
「レコードなら知ってますよ」

 小田桐先生は、レコードは知っていてカセットテープは知らないのか……とまた呟いた。

「CDが出てくる前までの音楽などを録音、再生するためのメディアだったと思ってもらえればいい。……となると、やはりあれは別の人間の仕業か」

 ふぅむ、と唸ると小田桐先生は大きくうなずき、わたしに痛いくらいの鋭い視線を向けてきた。逆にわたしは怯んだ。

「火浦、おまえが『別れの曲』を弾けるようになるまで付き合おう」
「……へ?」
「正直な話をしよう」
「はぁ」
「四月になってから広がり始めた『新しい七不思議』だが、俺は大変、迷惑をしている」

 小田桐先生は音楽教諭だから音楽室の管理責任者だったはずだ。四月に入ってから流れ始めた噂話によって、管理責任を問われたのかもしれない。

「『犯人』がいるのなら、捕まえたい」

 そう言って、小田桐先生は不敵な笑みを浮かべた。その表情に、なぜか心臓がどきりと音を立てた。

「火浦が俺を頼ってきたのは必然だったんだな」

 小田桐先生の楽しそうな声に、本来の臆病な自分が現れそうになったけれど、ぐっと胸を張り、小田桐先生を睨みつけた。




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