【一話】不法侵入者に器物破損、正直、勘弁してくれないか《前編》

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 有り得ないはずの出来事が俺のところへやってきた。
 魚は水の中を泳ぐもの、鳥は空を飛ぶもの。そんな常識を打ち壊す存在。

     *     *

「睦貴先生、あの……お願いが」
 学校帰りの連城文緒(れんじょう ふみお)がはにかんだ笑顔で診療所の入口に顔を出した。文緒がこういう表情をする時は、百パーセントの確率でろくでもないことが待ちうけている。
「断わる」
「話も聞かないで断わるなんて、ひどくない?」
「ひどくない。どうせ、ろくでもないお願いなんだろ」
「そんなこと、言わないで。ね、睦貴せんせ」
 扉の隙間から上目遣いで文緒は『お願い』をしてきている。
 うわあ、汚い! 俺がそれに弱いのを知っていて意図的にやってるだろっ!
「ねぇ、お・ね・が・い」
 制服姿でそんなお願いをするな。語尾にハートマークが見えた。俺はロリコンじゃないぞっ!
「蓮さんと奈津美さんの許可を取ってから」
 にしろと言おうとしたら、その蓮さんが文緒の後ろから姿を現した。仕事中じゃないのか?
「睦貴、オレの許可はすでに取ってあるから安心しろ」
 うわぁ、最悪。この親子、最強に最悪。
 蓮さんは文緒とともに診療所の扉を開けて中に入ってきた。文緒の手には血に汚れたタオル。その中にはなにか生き物が入っているらしい。
「開店休業中です」
 最後のあがきを試みるが、蓮さんにばさりと切られる。
「開いていようがいまいが、そこに患者がいる。おまえは診ればいい」
 診察台の上に文緒は丁寧にタオルの塊を置く。タオルは真っ赤だ。これはどう考えても。
 そっとタオルをはずすと、そこにはぐったりと力なく横たわっている一匹の黒い犬。毛には艶があることは分かったが、長くてやわらかい毛は激戦をくぐり抜けたらしい名残で絡まり、埃にまみれていた。俺の髪の毛もかなりの猫っ毛だからあの絡まりを直す時の苦労を考えたら辛いなぁ、と今、どうでもいいことが頭をよぎる。
「交通事故か?」
「違うの。マンションの横に落ちていた」
「……落ちていた?」
 連城家は俺が所有する駅前の一等地で十階建てのマンションに住んでいる。俺は最上階に住んでいて、連城家はその下の九階。俺はその一階の店舗部分を改造して、動物のための診療所をやっている。開けてはいるが、営業していないという状況だが。
 犬は文緒が学校から帰って来た時に見つけたらしい。
 犬同士のけんかかと思ったのだが、ここまで血まみれになるほど激しいやりあいを犬同士でするのかどうか、俺は飼ったことがないので知らない。
「ねぇ、睦貴先生。この子、大丈夫だよね」
 瞳を潤ませて俺のことを見ている文緒を安心はさせたいが、この状況をみると、どう考えてもよい知らせを告げることはできない。自分でも冷たいと思いつつも事実を述べる。
「これだけの出血があるし、身体もそれほど大きくないから助かる見込みは少ない」
 予想通り、文緒の瞳にはみるみるうちに涙があふれてきた。
「そんな……!」
「努力はするし、最善は尽くすが、こればかりは俺の手でどうすることもできない」
 泣き始めた文緒を蓮さんが優しく抱き寄せる。文緒はその腕の中で声を殺して泣いている。
 俺だって好きで文緒を泣かすようなことを言っているわけではない。ここで甘くて優しい言葉を吐いて、文緒に変な期待を抱かせるよりは事実を述べて来るべき最悪な事態に備えるのがいい。これは俺が三十二年間生きて来て得た教訓だ。最初から期待など持たなければ落胆することもない。絶望して這い上がる努力をするくらいなら、最初から底でじっとしている方が幸せな場合もあるのだ。
 蓮さんの痛いくらいの視線を感じるが、今はそれよりも目の前の黒い毛の塊だ。
 再度タオルをはがし、傷口がどこか探す。慎重に傷口を探すが、血がすごいのに見当たらない。怪我をして出血がひどくてぐったりしているのかと思ったのだが、その割には呼吸はとても穏やかだ。まさか、という思いを胸に抱きつつ、眉間にしわを寄せて再度、慎重に見ていくのだが、やはり傷口はないようだ。
「結論から申し上げますと」
 思わず、改まった口調で文緒と蓮さんを見る。
「この黒い犬には傷口は一切、見当たりません」
「……見当たらない?」
 蓮さんにしがみついて泣いていた文緒は、涙に濡れたままの顔をあげ、俺を見る。その表情はまさしく鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情で、笑いがこみあげてきた。しかし、さらにしかつめらしい表情をわざと作り、
「この身体に対してこれだけ血が出ていれば普通なら失血死でしょうが、その割にはずいぶんと穏やかに息をしている」
 そろそろ笑いをこらえるのも限界になってきた頃、ようやく文緒も俺がなにを言いたいのか察したらしい。
「この犬……超爆睡中。なんだこいつ、すごい神経が太いぞ」
「爆睡……って、え、なに、寝てるってこと?」
 文緒の真剣な表情に耐えられなくなり、思わずお腹を抱えて笑ってしまった。蓮さんは呆れたように俺を見ている。
「文緒、脅かしてすまなかったけど、こいつ、ただ寝てるだけだ」
「う……そ。じゃあ、この血は?」
「返り血、と見ていいだろうね」
 返り血? と文緒は聞き返してくる。
「想像すると、犬同士のけんかになった。しかし、このちび犬はおてんば娘で、けんかが強くて相手を血まみれにしてしまうほど激しく戦って勝ったけど、疲れて寝てしまった……と見るのが正解かと思うんだが」
「おてんば娘って、この子、女の子なの?」
「今、怪我がないか調べたら、メスだったよ」
 俺の言葉に文緒はとても複雑な表情で俺を見ている。言いたいことはなんとなくわかる。分かるんだが、そんな目で見るな。
「文緒、こいつは女と見れば節操なしだからな」
「蓮さんっ! 俺、そういう趣味はないですよ!」
「どうだか」
 うわぁ、ひでぇ! いくらなんでもそれはひどすぎるっ!
「大切な娘を泣かせた罰だ」
 蓮さんは文緒の少し癖のある黒髪をなで、俺を睨みつける。
「女を泣かすとは、本当にろくでもないな」
 悪かったよ。俺だって泣かしたくて泣かしたわけではない!
 そんな会話を知らない黒い犬は、幸せそうにすやすやと眠っている。
「ねえ、蓮。この犬……」
 蓮さんは文緒の言葉を先回りして、口を開いた。
「駄目だ。起きたら飼い主を捜すんだ。野良犬っぽくないから、きっと飼い犬だ」
 俺も蓮さんの意見に同意だ。
 動物を飼う、というのは生半可な気持ちだと駄目なんだ。最期まで看取るつもりで飼わないことには、人間も動物もお互いが不幸になるだけだ。生活を豊かにするために飼ったものが結果として不幸になるなんて、ナンセンスすぎる。
「睦貴先生!」
「俺も蓮さんの意見に賛成だ。動物はおもちゃじゃない」
「分かってるわよ! じゃあ、この子の飼い主が見つからなかったら、飼ってもいいでしょ?」
「その場合は仕方がない」
「蓮さん!」
 俺の非難の声に蓮さんは睨みつけてきた。
「その時はなにかの縁だ。保健所送りや野に放つなんてこと、できるわけないだろう」
 確かにそうだけど。
「専属獣医もいることだし?」
 あうっ。
「このままここに入院させるほどでもないしなぁ」
「じゃあ、飼い主が見つかるまで、私の部屋でいい?」
 蓮さんはしぶしぶといった感じで条件を付けてきた。昼間は俺が面倒を見て、診療所の仕事が終わったら家に連れて帰る、ただしそれは飼い主が見つかるまで。
 蓮さんのその案に文緒はかわいく笑った。泣いた時はどうしようかと思っていたが、今、笑顔を見ることができたからいいとしよう。
 だから! しつこく言っておくが、俺はロリコンではないからなっ!
 俺と文緒の年齢差はちょうどダブルスコアなんだ。たとえ俺がそういう気持ちを抱いたとしても、文緒から見れば俺は立派におっさん。ああ、そうさ。おっさんさ! 十代から見れば三十代なんておっさんだ!
「じゃあ、連れて帰るね」
 相変わらずのんきに眠っている黒い犬を文緒は大切そうに抱えて診療所を出て行った。蓮さんも一緒に出て行ったのかと思ったら、なぜかいる。
「蓮さん、今日はお仕事は?」
「行った。用事があって帰ってきたら、文緒が泣きそうな表情であの犬を抱えていたんだ」
 そういうことか、なるほど。
「オレがいうのもなんだが、いろんなものを精算しないといけない年齢なんじゃないのか」
 言われた言葉の意味が分かりすぎて、俺はなにも言えなかった。
「マンションを所有しているくらいだから女はいくらでもいいよってくるだろう。仕事だって真面目にこなせばおまえの腕ならかなり評価される」
「蓮さんの言いたいことは大体分かりますよ。俺だって今の状況を良しとはしていません」
 三十過ぎても母親に反抗して形だけの動物診療所を開所して、患畜を取らないようなろくでもない人間なのは理解している。その上、この住まいにしているマンションは、親父にお願いして建ててもらったものだ。働かなくても生きていけるという状況のため、ずっと甘えている。
 連城家とは兄貴の会社が縁でお付き合いするようになった。実は毎食、連城家にお世話になっているという状態だ。
「文緒はおまえにはやらないからなっ」
「蓮さんっ! ちょっと待ってくださいよ」
 なんでいきなり文緒の話が出てくるんだよ。
「放蕩次男に大切な娘はやれんからな」
「だから、どうしてそういう話になるんですかっ! 俺は別に文緒のこと、なんとも」
 蓮さんは冗談でそう言っているのかと思ったら、思っていた以上に真剣な表情をしていて、言葉を失った。
「おまえがどう思っていようが……まあ、いいや。きちんとした腕を持っているんだから、使わないと腐るぞ」
 蓮さんはそれだけ言うと、診療所から出ていった。
 俺はあの頃からずっと変わっていない。歳を取って見た目はあれから少し老けたけど、心はあの時のまま、凍っている。一歩踏み出さないとなにも始まらないのは分かっているけど、踏み出す勇気がなくてだれかが背中を押してくれるのを待っている。文緒が産まれた時から連城家に厄介になっているのだから、十六年、か。優柔不断にもほどがありすぎるな。





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