【十話】大団円……?《前編》

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 あっさりと帰された俺たちなんだが、どうにも真理の態度が引っかかる。ねちっこさは折り紙付きなあいつがこんなにあっさりと手をひくとは思えない。なにか手の内に持っているとしか思えない。
 車を運転しながら、近づいてくる実家に、気持ちが重くなる。左右を覆うように茂る緑の木々が懐かしい。このトンネルのような道を毎日通り、十六の時まで外界へと出ていた。この緑のトンネルは、異界への入口。この先には俺にとって冷たい世界が待っているだけだ。
 アクセルを踏む足からどんどん力が抜けていく。車のスピードは落ちるが、屋敷にたどり着いてしまった。
 日本家屋の左右に張り出した平屋造りの椋野の屋敷を見て、大きなため息をつく。
 ここを飛び出て十六年、俺は一度も帰ったことがなかった。親不孝だとかいろんなことをいう人はいたが、身体と心が拒否をしていたのだ。こんなことがなければ、近くにさえこなかった。
 飛び出した時からまったく変わっていない見た目に、俺の心は時空を飛び、ここから出て行った日へと戻る。泣いて取りすがる母を金色夜叉状態で振り払い、出ていった。涙と鼻水で濡れた母の顔は、無様で醜悪で、汚いと思った。こんな母から生まれたのかと思うと、恥ずかしくなった。母親に対してそんなことをするなんて、という非難の声も聞こえてきそうだが、限界だったのだ。
 学校に行っている間だけが自由になり、息をすることができた。ここに帰ってくると、常に母に張り付かれ、息が詰まって酸欠で死んでしまいそうだった。助けを求めても、だれもいない。
 冷たい暗闇の底で、俺はいつしか、助けが来ることを諦めた。内にこもり、母に冒されないように自分を守るしかなかった。しかし、それも限界だった。
 母は俺を求め、屋敷に戻ればずっと張り付き、寝るときも一緒だった。異常じゃないか。小学校低学年ならまだ許容されることでも、思春期を迎えた男が母親と一緒に寝ているなんて!
 身も心も壊れかけた時、俺はダメもとで初めて父親に救いを求め、すがった。父はどこまで俺と母のことを認識していたのだろうか。知っていながら、知らない振りをしていたのか。
 恨みつらみはあったが、父は俺の訴えを聞き入れてくれた。そして俺は、ここから、この冷たい牢獄から逃げた。
 もう来ることはないと、ここから出たときに思っていた。それなのに戻てきてしまった。
 俺は車の中から出ることができないでいる。これは最後の抵抗だ。
 文緒とはるちゃんが心配そうな顔をして、運転席の窓を叩いてきた。俺はハンドルに身体をあずけ、顔だけ二人に向けた。ここを開けたら、母がやってくる。身体にたたきこまれた恐怖。
 身体が動かない。
 俺は二人に車に乗るように後ろを指さした。顔を見合わせ、うなずいて乗ってきた。
「どうしたのじゃ、ここはおぬしの家なのじゃろう?」
 幼女に戻ったはるちゃんは少し責めるような口調で俺にそう言う。事情を知っているらしい文緒は心配そうな表情で俺を見ている。
「いいんだ。それより、帰ろう」
 いいチャンスだと思うのだが、身体が動かない。
 きちんと母に決別を告げなければ、俺は前にすすめない。だからここから降りて……と思うのだが、身体が動かない。
「無理することないよ」
 文緒ははかない笑みを浮かべ、そう言ってくれるが、母ときちんと決着を付けなければ、俺は文緒に気持ちを伝えられない。
 俺は身体に力を入れて上半身を起こす。
 ふと玄関に視線をやると、きれいに髪を結いあげ、薄紫色の色留袖を着た女が立っていた。十六年ぶりに見るが、あれは間違いなく母だ。指先から体温が低くなり、血の気が引いていくのが分かる。エンジンをかけてこのまま逃げたくなる。
 はるちゃんと文緒が先に車を降りて、運転席横のドアまで来てくれた。俺は今、一人ではない。震える手でドアを開け、力の入らない足で地面に立つ。文緒が左手を、はるちゃんが右腕を取ってくれた。情けないなと思うが、今の俺は母に一人で立ち向かうことができない。まだ、向かい合おうと思えただけでも進歩したと自分では思う。
「睦貴!」
 独特な金切り声。耳をふさぎたくなる。鼓膜を直接引っかかれているような不快感。
 はるちゃんは俺の右腕に爪を立てる。そちらに気を取られていたら、母はものすごい勢いでこちらへとやってきたようで、そのまま体当たりされた。息が詰まる。
「睦貴、待っていたのよぉ」
 焦点の合わない濁った眼で俺を見上げている。身体に回された腕を振り払おうとしたら、文緒とはるちゃんが母の腕を俺の身体からほどいてくれた。文緒が俺の前に立ってくれた。先ほどとは逆だな。
「睦貴先生は渡しません。あなたのものではありません」
 はるちゃんは母に抱きつき、必死になって俺に向かってくる母を止めている。身体は小さいのに、母が押され気味だ。
「睦貴はワタシのものよ。ワタシが産んだの」
 赤い口紅で彩られた唇から紡がれる言葉は、吐き気しかもよおさない。俺は俺であって、だれのものでもない。産んでくれたことには感謝はするが、それだけだ。
 母は唇と同じ色の真っ赤なマニキュアを塗った爪ではるちゃんを引っ掻く。はるちゃんの頬に何本か筋が走る。はるちゃんは顔をしかめたが、それでも母から離れない。
 母はさらにははるちゃんの長くて艶のあるきれいな黒髪をわしづかみにして、力任せに引っ張り始めた。
「やめろ!」
 たぶん、俺は初めて母の前で声を荒げた。母は身体を震わせ、はるちゃんの髪の毛をつかんだままで俺を見る。
「睦貴……あなたまでワタシのことを怒るの?」
 焦点の合わない視線、うるんだ瞳。俺はこの十六年間、こんな人間にずっと縛られ続けていたのか。これは呪いだ。
「姫青の髪の毛から手を離せ」
 母ははるちゃんの髪から手を離すと同時に、地面に突っ伏し、大声をあげて泣き始めた。なんだ、これは。
「ひどいわ、睦貴。ワタシ、あなたの帰りをずっと待っていたのに。どうしてあなたまでワタシのことを怒るの?」
 文緒が母に近寄り、慰めようとしていた。しかし、俺は文緒の腕を取り、止めた。抗議するように睨まれたが、俺は首を振る。
「ワタシにはあなたしかいないのに……! どうして、ドウシテナノ?」
 壊れている、と思った。
 どうして母は俺に救いを求める? 俺を束縛して、依存して、それではお互い、自由ではない。
 俺を解放してくれ。もう、子どもではないのだから。
「俺に依存するのはやめてくれよ、母さん」
 母はあれほど号泣していたのに、その言葉に泣きやみ、ほつれた髪を顔に貼りつかせて俺を見上げた。
「睦貴……?」
「俺はあんたを救えないよ。いい加減、解放してくれないか。俺は俺で、あんたの求めるだれかではないんだ」
 母はずっと、俺のことをだれかの代わりにしていたようだ。たまに俺の名ではない父でもない別のだれかの名前で呼ばれることがあった。
「きちんと現実を見ろよ」
 母は俺を見上げ、凝視する。
「あなたは、喜貴(よしき)ではないの?」
「違う。俺は睦貴だ」
 俺のその一言に母は目がさめたかのような表情をした。
「喜貴ではなくて……睦貴?」
「そうだよ。この名前をつけてくれたのは、母さんじゃないか」
 「貴」という字を使いたかったから、一月生まれでよかったと言ったのは母だ。
「そう……そうよね。あなたは喜貴ではない」
 母は今まで夢の中にいたようだ。どこを見ているのか分からなかった視線だったのが、きちんと俺を見ている。
「睦貴……大きくなったのね。ごめんなさい、ワタシ……」
 座り込んでいる母の腕をとり、立ち上がらせた。
「ただいま、母さん」
 俺のその一言に、母は顔を覆った。俺は母を抱きよせ、その背中を撫でた。鼻孔をくすぐる母の匂いが懐かしかったが、昔ほど嫌ではなかった。

     *     *

 ご飯を食べていけと言われたが、今日は辞退した。早いところ、文緒を連れ帰りたかった。兄貴にお礼を言おうと思って探したのだが、どうやらすぐに仕事へと戻ったらしい。借りがまたできてしまった。
 なんだかすべてが解決したような軽い気持ちでいたのだが、エンジンをかけようとした時、見知らぬ番号から俺の携帯電話に着信があった。なんだか嫌な予感がする。いつもなら無視をするのだが、これは出なくてはならないと本能が告げている。恐る恐る、出る。
『睦貴、か』
 その声は、真理だった。さっきの今でかけてくるとは、しつこいヤツだな、やっぱり。
「なんだよ」
『おまえにも姫青にも興味深い話だと思うんだが』
 そこで真理は一度、言葉を切った。思わせぶりだな。
「用件をさっさと言え。俺は今から、帰るんだから」
 ヒキコモリニートなんだから、いつまでも外にいさせるな。
『ふ……、そんなつれないことを言うな。用件は一つだ』
 向こう側が急に騒がしくなった。しばらく遠くで人の話す声が聞こえ、静かになった。
『ああ、すまない。いかなくてはならない。姫青に伝えてくれ。柳姫に会いたければ、証を持ってこい、と』
 一方的に真理はそれだけを言うと、電話が切れた。相変わらずこちらから質問をさせてくれないのかよ!
「はるちゃん」
 後ろの席で頭の上の耳をいつも以上に立て、俺を凝視していたはるちゃんの名前を呼ぶと、飛び上がった。
「今のは真理か? どうして母上の名前が出てくるっ」
 さすがお犬さま、聞こえていたのか。
「知らないよ。さて、どうする? また重枝の家に戻るか? それとも、マンションに戻ってから考えるか?」
「決まっておる。真理の元へ向かえ」
 そう言うと思ったよ。
 エンジンをかけ、俺たちは再び、重枝の家へと向かった。今回はベンツもなにもいなく、競争の必要はないようだ。重枝の家への一本道を重苦しい空気が流れるワゴンで向かう。
 母の問題が片付いたというのに、今度ははるちゃんの母問題かよ。ったく、真理はなにを考えているんだ?
 助手席に座っている文緒と後ろに座る野郎三人に、今かかってきた電話の内容を伝える。
「もしかして」
 文緒は後ろを向き、はるちゃんに重枝の屋敷の中で見たらしい人の特徴を伝えている。
「母上なのじゃ!」
 姉崎・桜井の話だと、はるちゃんの母親である柳姫は殺されたと言っていたが?
「ちらっとしか見えなかったんだけど、包帯をして、座敷に敷かれたお布団の上でぼんやりしていたよ。頭の上に耳があったからもしかして、と思ったんだけど」
 文緒は悔しそうに椅子の背を握りしめている。だけど、文緒も囚われの身だったのだ。その情報を提供してくれただけでもありがたい。
 すっかり暗くなった頃、重枝の家にたどり着いた。車から降りる前に蓮さんに連絡を忘れていたことを思い出し、電話をかける。文緒は無事に取り返したが、今度は向こうにはるちゃんの母親がいるらしいと伝えると、分かったとだけ告げられ、切られた。あまり遅くなるなよ、という言葉も添えられた。
「よし、行くか!」
 俺の掛け声に全員がしっかりと返事を返してきた。
 ワゴンから降りると、立派な総檜造りの引き戸が開き、真理が出てきた。
「はるちゃんの母親を返してもらおう」
「せっかちだな」
 真理は暗い笑みをたたえ、俺たちを見ている。せっかちはどっちだよ。
「柳姫なら、さきほど逃げたよ」
 はい? なにあっさり言ってるわけ? もしかして、さっきの電話途中のばたばたはそれ?
「あれだけひどい怪我をしているから、このまま放置しておいたら大変なことになるだろうな」
 その発言に頭に血がのぼり、気がついたら真理を思いっきり殴っていた。真理は少し驚いた表情をしていたものの、殴られて腫れた頬を押さえもせず、楽しそうに笑っている。
「なにもできないヘタレかと思っていたが、意外にも熱かったんだな」
 うるさい、ヘタレでニートでナニが悪いっ!
「とにかく、一刻も早く見つけないと」
 俺は文緒の手を握り、重枝の庭を勝手に探させてもらうことにした。はるちゃんたちは嗅覚が鋭いので、別れて探してもらう。真理に特に止められなかった、ということは見られてまずいものとかはここにはないということか。なにか見つけてやろうと思ったんだが、残念だ。
「睦貴先生」
 文緒はいきなり立ち止まり、俺の手を引っ張った。
「どうした?」
「さっき、あっちに人影が見えたの」
 と指さすのは森の中。暗い中、懐中電灯も持たずに入るのは気が引けたが、とりあえず向かってみる。空を見上げると、三日月が見えた。
 少し分け入ると、木の根元に一匹の犬が丸まっていた。少し長目の黒い毛は艶があり、葉の隙間から降り注ぐ月の光を浴びて、神々しかった。
「もしかして、柳姫か?」
 俺の声にその犬は、渾身の力を込めて立ち上がろうとしていた。
「逃げなくてもいいから。おまえ、姫青の母親なんだろ?」
 それでも黒い犬はかなり警戒している。文緒にはるちゃんを呼んできてもらうようにお願いした。
「俺はどうやら、はるちゃんの……ああ、姫青のこと、勝手にはるちゃんと呼んでいるんだが、その、はるちゃんのご主人らしいんだ」
 こんなことで柳姫の警戒がとけるとも思っていなかったが、はるちゃんが来るまでに精一杯の努力はしようと思った。
「睦貴、母上が見つかったとは本当か」
 はるちゃんの声に目の前の柳姫は逃げようとしている。
「ちょっと、待てって!」
 走りだそうとした柳姫の身体に抱きつき、止める。どこか痛いのか、ひゃんと鳴き声を上げた。悪いと思いつつも、しかし手は緩めない。
「どうして逃げようとする」
 どこかに傷があるようで、柳姫の身体からは血の匂いがする。傷が痛むはずなのに、どうしてそんなに暴れて逃げようとする?
「落ち着けって! 俺は獣医だ。怪我をきちんと診てやるから!」
 それでも暴れに暴れまくっている。
「この馬鹿者っ! 俺が痛いんだ、暴れるな」
 そんなもので落ち着くとは思えなかったのだが、とにかく逃がしたらダメだというのはわかり、必死になった。
 俺が柳姫を見つけた、というのは真理側にも伝わったようで、本人自らもやってきた。
「どうしてあなたまでわたしから逃げようとする」
 真理の悲しそうな淋しい声。その声に、柳姫は観念したように、腕の中で静かになった。人間になるだけの力は残っていなかったようで、そのまま俺の腕の中でぐったりと瞳を閉じた。
「母上?」
 驚いてはるちゃんが近寄ってきて、俺の腕の中の柳姫を見つめる。
「大丈夫、疲れて眠ってしまっただけみたいだから」
 気が抜けたのか、柳姫はあっという間に眠りについてしまった。




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