《十一章》「小さな心の痛み」

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 奈津美は一之瀬とともに新企画を進めていた。
 蓮は外出が多くなり、どこに行っているとも話さなかった。一之瀬は知っているのかどうか知らないが、蓮の外出をいつも許可している。
 貴史と会って打ち合わせする機会は多かったが、一之瀬が同席してくれていることが多く、仕事以外の話をすることもなかった。ただ、貴史の左手の薬指に光る指輪を目にする度に、心が痛んだ。
 そんなある日、貴史とふたりきりで打ち合わせになった。打ち合わせが終わって部屋を出ようとしたところ、貴史に手首をつかまれた。
「山本さん、なんでしょうか」
 奈津美は極力、にっこりと微笑みながら貴史を見上げた。
「奈津美……」
「山本さん、今は仕事中ですよ。失礼します」
 奈津美は手を振り払って、部屋を出た。足早にエレベーターに乗り、部屋に戻った。第4課には、だれもいなかった。
 奈津美は自分の席に戻り、荷物を置いた。涙が出るかと思ったが、まったく出なかった。
 机の上に置かれたはんかちを見て、最近、蓮を見かけないなと思っていたところに、蓮が帰ってきた。
「ただいまー。って、あれ、一之瀬さんは?」
「一之瀬さん、今日はなんか用事があるって先に帰りましたよ」
「なんだ、そうだったのか。だったら戻ってこなきゃよかった」
 といいつつも、蓮は自分の席にかばんを置いた。
「あ、佳山さん、この間のこれ、ありがとう」
 奈津美は洗濯してアイロンをかけておいたはんかちを蓮に返した。
「あ、忘れてた。わざわざありがとう」
 手渡されたはんかちと奈津美の手を、蓮は握り締めた。
「……佳山さん?」
 奈津美は手を引いたが、蓮はぎゅっと握りしめた。
「先輩、まだあいつのこと、好きなんですか?」
 蓮は真剣なまなざしで、奈津美を見つめた。
「え……」
「オレ、先輩があの山本とかいうやつと一緒に仕事をしてるの、見ました。あんな二股かけてたやつ、まだ好きなんですか?」
「知って……」
 奈津美は不意をつかれて、言葉を失った。
「オレ、いろいろ調べたんです。先輩、」
「言わないで……」
 嫌でも自分の耳に入ってくる、この課へ来ることになった、いきさつ。
「知ってるの」
「なら、どうして!?」
「……親友だったのよ……。そんなこと暴きたてて……どうするの?」
「どうするって、濡れ衣ですよ!?」
 蓮は自分のことのように怒ってくれている。そうやって怒ることができたら、どれだけすっきりできたことだろう。
「あの子は、寿退社する身よ。私はここであがいてあがいて上にあがればいいだけのこと」
「先輩、知っているんですか? 榎木美歌の今までやってきたこと!」
 ああ、その名を……言わないでほしかった。
「うん、今回の私の件で、嫌でも耳に入ってきた」
 美歌は……社内の有望そうな男性社員をたぶらかして二股にも三股にもかけていた。さらには、一番将来有望と言われていた貴史と……私から貴史を奪って今回、結婚するってこと。
「そして、今回のこの左遷、その榎木の」
「言わないで!」
 あの日の会議、本当になにも知らなかった。美歌は奈津美に……会議があることをわざと教えていなかったのだ。そして、あの会議、本当は美歌が担当していて、部屋と資料はきちんと用意していたものの、わざと用意していないと部長に話し、奈津美に罪を着せたのだ。美歌は部長にかわいがられていたという話だ。入ったばかりの奈津美の話を全く聞かないですぐに左遷にしたあたり、美歌がなにかと部長に私のことを悪く話していたのだろう。
「もうね、終わったことなの」
「先輩!」
「過去に戻れるのなら、戻りたいわ。でも、もう過ぎ去った時間は戻らないのよ。一之瀬さん、言っていたわよね。『いつまでも下を向いていたら、もったいない』って」
 奈津美はしっかりと顔をあげて、蓮を見た。
「私ね、悲しくて悔しくて、たくさん泣いた。でも、泣いたところでなにも変わらないし、一之瀬さんの言う通り、もったいないって思ったの」
 奈津美は少し涙が出そうだったが、ぐっと我慢した。
「それに、佳山さんの『負け犬』発言に……なんか、悔しくって」
 奈津美はくすっと笑った。
「だから、結果はどうあれ、頑張ることにしたの」
「先輩……」
「うん、でも。ありがとう」
 奈津美は両方にえくぼを刻んでにっこりと笑った。蓮はその笑顔に……どきっとした。
「お礼に、今日の夕飯、おねーさんがおごってあげましょう!」
「え、まじまじ?」
「給料、少ないけど入ったし。私、実家通いだから」
「うっわー、助かるー」
 時計を見ると、定時を過ぎていた。
「ちょっと早いけど、ご飯食べに行きましょうか!」
 奈津美は制服から私服に着替えて、荷物を持った。蓮は机の上に置いたかばんを持ち、消灯などのチェックをして、部屋を後にした。



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