《十五章》「笑顔」

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 貴史と一緒にクライアントのところへ行くことがあったが、仕事中なのでプライベートな話は一切することをしなかった。向こうはなにか言いたそうだったけど、奈津美が仕事以外の会話をすることを拒否していた。
 今更、なにを言おうとするのだろう。
 謝罪? そんな言葉、もういらない。奈津美はこれはいい機会だったんだ、ともう忘れることにした。
「在庫の糸なんですが、」
 奈津美はクライアントに糸の在庫表を見せ、
「見ていただくとわかるように、正直、これを商品とするには厳しいのは確かなんです。ですが、この糸たちを組み合わせて、ホテルのシーツを仕立てる、というのはさほど難しいとは思わないのです」
 アパレル部門が解散になって痛手を被った会社ばかりを回るので、正直、かなり疲れる。門前払いを食らうのは仕方がないが、しぶしぶ仕事の話だから、と話は聞いてもらえるけれど、色好い返事はまったくもらえない。まあ、話を聞いてもらえるだけマシと自分の心に言い聞かせながらクライアントに話をする。そうでもしないと心が折れてしまいそうだった。
 さらに、こちらの言っていることは、ものすごく手間がかかるけどそんなにコストをかけられない、という採算がとれないのではないか、という無理難題を引っさげていくのだから、こちらの神経は疲弊するばかりだ。
 どうにか話を聞いてくれた会社すべてから断られ、ここが最後という会社になっていた。規模も小さく、正直、ほとんど期待できないと思っていた。
「あー、わかったわかった」
 人の良さそうな社長はにこにこして、
「それなら、うちが得意ですよ」
「え?」
 奈津美はその言葉に、きょとんとした。
「余り糸を使って同じ糸を使っているかのようにそれっぽく作るんでしょ?」
「まあ、そういうことです」
「うちに最初に来ていれば、あなたたちも苦労しなくて済んだのにねぇ」
「……へ?」
 奈津美は思わず、そう言っていた。
「うん、いいよ。うちがやるよ、その仕事」
 社長の意外な言葉に、奈津美はちょっと涙が出た。
「ありがとうございます!」
「実は、工場を閉めようと思っていたところでね。あんたたち、いいタイミングだったよ」
「あ、いいんですか?」
「客がいるのに閉められるかい」
 奈津美はうれしくなって、泣いた。
「ほらほら、泣かない。あんたは笑顔が似合うよ」
 奈津美は涙を拭いて、頑張って社長に向かって笑顔を向けた。
「そうそう。いいね、その笑顔。あんたの笑顔に免じて、あのときのことは水に流すし、今回の仕事も引き受けるよ」
「ありがとうございます!」
 奈津美はうれしくなった。
 早速、契約を結び、仕事のスケジュールの話になった。
「うちはいつからでも稼働できる状態だよ」
「わかりました、今日帰ってすぐ、荷物を送る手はずをします」
「で、なにをどうすればいいかね?」
 奈津美と社長は詳しい話を始めた。貴史はそんな奈津美を、眩しそうに見つめていた。


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