《二十三章》「噂話」

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 それからしばらく、何事もなかったかのように過ぎていた。
 仕事は少し落ち着いたとはいえ、それでも残業の日々だった。
 貴史の件は……心身耗弱と言うことで、今回も不問になった。
「あの野郎……」
 蓮は相当怒っていたけど、奈津美は気にしないことにした。
「え? あのふたり?」
「うん、駅のホームで抱きあっ……」
 奈津美が給湯室に行くと、そこにいた女子社員が急に黙った。奈津美はその反応に疑問を思いつつ、お茶を入れて席に戻った。
 そういえば……ここ何日か、視線が痛い。なにかやった? お茶を飲みつつ、考えた。……思い当たる節はまったくない。
「……気のせいか」
 奈津美の独り言を聞きつけた蓮は、
「なにが気のせい?」
「ん? なんでもない」
 気にするだけ時間の無駄か。奈津美はそう結論を出し、パソコンに向かった。
「小林さん」
 会議の前に奈津美は角谷に呼び止められた。角谷は角に奈津美を呼び、
「噂を聞いたんだが、」
「噂?」
「きみが佳山くんと付き合ってるって」
「なっ!?」
 ああ、給湯室で話していたのはやっぱりそうなのか。
「だれですか、そんな噂」
「あれ、違うのか。わー、賭けに負けたなあ」
 角谷は残念そうに言っている。
「部長! 人で賭け事やめてください!」

   *   *

 仕事のあと、たまに食事に行く仲にはなっていた。
「今日、部長から付き合っているのかって聞かれたんだけど、蓮は困るよね、そういう噂」
「あれ? オレたち、付き合っているんじゃないんですか?」
「あ……え……?」
 奈津美は蓮の言葉に固まった。
「え? あれ、違うの?」
 蓮は心外だと言わんばかりの顔で奈津美を見た。
「だって蓮、好きな人いるんでしょ?」
「だーかーらー、それは先輩のことだって」
「だれ先輩?」
「小林先輩」
 小林なんて名字、多いから同姓なんだ、と思っていたら、
「先輩……。鈍すぎない? それともわざと?」
「え? なにが?」
 おでんをつつきながら幸せ顔で食べていた奈津美は、本当に分かっていなかった。
「オレが好きなのは、今オレの目の前でおでんを頬張っている小林奈津美なんです!」
「…………は?」
 奈津美は固まった。
「今、なんと?」
 酒はお互い、飲んでいないはずだから、素面のはずだ。
「分かるまで何度でもいいます。オレは小林奈津美が好きなんです!」
「え……。嘘でしょ」
「嘘じゃない、本当です!」
 蓮は大真面目に言っているのに、
「蓮、今日はエイプリルフールでもないわよね」
「先輩は覚えてないかもしれないですが、オレ、入社試験の日に、先輩に部屋を教えてもらったんです」
「……あ」
 奈津美は思い出したらしい。
「あ、あの時の!」
「はい。おかげでこうして入社できて、先輩に再会することができまして」
 蓮は深々と礼をした。
「やだ、蓮」
「あのとき、助けてもらってなかったらオレ、ここに入れてなかったです」
 こうして入社できたから、奈津美にも会うことが出来たのだ。
「あの時かあ」
 奈津美は思い出していた。
 あの頃、ちょうど貴史と付き合いはじめたばかりで、なんだか世界は光に満ち溢れ、輝いて見えた。
 困った顔をして歩いている男の人……スーツがなんだか浮いていて、明らかに就職活動しています、って顔をしていて。それに、男の人相手にこう思うのは悪いな、と思ったけど……すごく可愛くて、つい声をかけていた。
「こんにちは、なにかお困りですか?」
 男の人はほっとしたような表情で奈津美を見た。
「すみません、ここに行きたいのですが……」
 そう言って渡された紙を見て、奈津美は微笑んだ。
「反対ですよ、こちらです」
 奈津美は案内した。
「ありがとうございます」
 男の人は深々とお辞儀して、顔をあげた。目と目が一瞬、合った。奈津美はにっこり笑って、
「がんばってくださいね」
「はい!」
 男の人は奈津美に釣られて、笑った。その笑顔がものすごく可愛くて、ああ、私に弟がいたら、こんな感じなのかな、と一人っ子の奈津美は、ぼんやりとそう思った。男の人が部屋に入るのを見届けて、奈津美はその場を後にした。
「うん、思い出した」
 奈津美は蓮を見た。
「弟みたいだな、って思った」
「……弟」
 蓮は奈津美より年下だから、間違ってはいない。いないけど……。ものすごく切ない。
「オレ、先輩のこと……」
「うん、ありがとう……。でも……」
 目の前にあったおでんはすっかり冷めていた。
「ごめんね……」
 奈津美はうつむいて、そう言った。
「あ……。うん、でもオレ、先輩のこと好きなの、変わらないから!」
 蓮はそう言って、おでんをほおばった。
「おでん、美味しいね」
 蓮は無理やり笑おうとしている。
「……うん」
 奈津美はそんな蓮を見て、切なくなった。
 ごめんね……。
 貴史のことは……吹っ切れたんだけど……。
 まだ、新しい恋を始めるには、もうちょっと時間が必要かな……。
 奈津美は蓮を見ながら、そうぼんやりと思っていた。
「先輩」
 お店を出てすぐ、蓮は奈津美にはい、となにか渡した。
「鍵?」
「うん。オレの家の鍵」
「は? なんで??」
 蓮は奈津美の手に無理矢理握らせ、手を包み込んだ。
「オレ、一人暮らしだろ? なにかあったときのために、お願いしていい?」
「なにかなんて、あるわけないでしょ!」
 奈津美は返そうとしたが、
「持っておくだけならいいだろ?」
 強引に鍵を渡されてしまった。奈津美が苦手な下から上に見上げるようなまなざしで見られ、
「……まあ……。持っておくだけなら……」
 蓮に押し切られるような形になったが、奈津美は仕方なく、鍵をバッグにしまった。いつものように改札で別れ、奈津美は家に帰った。


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