《一》呼ばれても困りますっ01

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 香椎真珠かしい まじゅの耳に届く教師の声は、まるで子守唄のようだ。
 ここ数日、寝不足だった真珠にはそれは心地よく、シャープペンシルを握ったまま、舟をこいでいた。白いノートには、意味をなさない線がにょろりと描かれる。



 ──この世界の救世主。

   真珠しんじゅの名を持つ、救い主よ。



 夢うつつの中、真珠はそんな声を聞いた……ような、気がした。
 聞いたことはないが、ここのところ夢の中で毎日聞いていて、おなじみになってきている声。
 儚くてまるでガラス細工のような繊細な声に、真珠はますます、夢の世界へと誘われる。あまりの気持ちよさに、真珠の頭は机へと突っ伏して本格的に眠りの世界へと旅立とうとした。
 ところが。

「香椎っ! オレの授業で眠るとは、いい根性しているな!」

 真珠の耳元で怒号が聞こえ、一気に目が覚めた。さらには耳を引っ張られ、真珠は弾けたように飛び起き、その勢いで立ち上がると、椅子は大きな音を立て、床に倒れた。
 真珠はなにが起こったのか分からず、隣に立つ教師に視線を向けた。
 少しかたそうではあるが癖のない茶色の髪、冷ややかな茶色の瞳。険のある視線に、真珠は相手の怒りを削ごうとして、のんきな声を上げてしまった。

「え……っと、琥珀?」

 真珠の声に、それまで静かだった教室内がざわめく。
 真珠は今、授業中だということをすっかり忘れ、幼なじみで臨時教師としてやってきている貝守琥珀かいもり こはくをじっと見つめた。それがさらに琥珀の怒りを買ったらしい。こめかみに血管が浮き、引きつっているのが分かった。

「香椎、おまえ今、なんの時間か分かっているのか? 居眠りのあげくに呼び捨てか」

 琥珀は頬をひくつかせ、チョークのついた大きな手で真珠の頭をつかむと、指先に力を入れて髪の毛をかき回した。きっちりと三つ編みを結んでいる真珠の髪はそのせいでぐちゃぐちゃになり、髪が逆立っている。
 真珠は髪の毛を押さえながら眉間にしわを寄せて、琥珀を恨めしそうな表情で見た。
 せっかく今日は綺麗に出来ていたのに。
 それを見て、真珠が反省していないことに気がついた琥珀は、怒鳴りつけた。

「香椎真珠、罰として廊下に立っていろ!」


┿─────────────┿

 結局、真珠は授業が終わるまで、廊下に立たされたままだった。
 チャイムが鳴り、教室内から琥珀が出てきた。廊下に立っている真珠の前に琥珀はやってきて、鋭い視線を向けてきた。

「香椎、放課後に科学室まで来い。説教だ」

 憮然とした琥珀の表情に対して、真珠は廊下に立たされていたのも忘れ、瞳を輝かせる。

「え? それってお誘いデート?」

 真珠は胸の前で手を合わせ、期待をこめて琥珀を見上げた。

「んなわけあるか、馬鹿者がっ!」

 ごつんっ、と音がするほど頭を叩かれた。
 しかし、真珠はなぜか幸せそうな笑みを浮かべた。

「琥珀がくれるものは、例え痛みでもあたしには宝物……!」

 琥珀は真珠の発言に呆れ、ため息を吐くとめんどくさそうに手を振り、教室に戻るように指示を出した。

「貝守センセ、ごきげんよう」

 真珠はくすくすと笑いながら、教室へと戻った。
 相変わらずのマイペースっぷりに琥珀はただ、もう一度、大きくため息を吐き出した。

┿─────────────┿

 真珠が教室に入ると、興味津々な表情をしたクラスメイトが数人、近寄ってきた。
 真珠はずっと気になっていた髪の毛を直したくて、席に戻りながら髪ゴムを外した。

「ね、香椎さん」

 席にたどり着き、カバンからブラシを取り出して手洗いに行こうとしたところ、呼び止められた。

「貝守先生とは、どういう関係なの?」

 じとっと湿っぽい視線を向けられ、真珠は数度、瞬いた。
 真珠は小首をかしげ、クラスメイトたちに視線を向けて、なにを聞いているのだろうと思いながら、口を開いた。

「科学のセンセでしょ?」

 真珠のずれた答えに苛立ちを覚えた女生徒はさらに質問を重ねようとしたが、真珠は時計を見やり、慌てる。
 次は口うるさい教師だ。
 髪の毛をこのままにしておけば、また廊下行きだ。二時間連続、廊下に立たされるのは勘弁してほしい。
 真珠を引き止める声を無視して、手洗いに駆け込む。
 休憩時間の残りは少ないが、真珠は手洗いの扉を開け、中に入った。
 いつもならギリギリまで手洗いの鏡の前で談笑しているはずの女子の姿が見えない。
 端でこそこそと髪の毛を直す必要がないことに安堵したものの、今度は逆に一人っきりなこの状況が落ち着かない。
 一刻も早く、直して教室に戻ろう。
 ブラシで波打っている髪をとかし直し、二つに分けたところで真珠の耳に変な音が聞こえた。
 真珠はブラシを握りしめ、音がどこからするのか確認するのだが、よく分からない。気味が悪くて仕方がない。
 本来ならば三つ編みにしなくてはならないのだが、とにかく一刻も早くここから出たいため、真珠は分けた髪を軽く結ぶだけにして手洗いから出ようとした。

 ぱきん……

 薄氷が割れたような音が、真珠の耳に響いた。
 それは最初、とても小さな音だったが、ぱきんぱきんと重なり合い、大きくなっていく。
 髪を直している場合ではない。
 真珠は恐ろしくなり、ブラシをきつく握ってきびすを返そうとした。
『待っ……て、くだ──さ、い』
 ノイズ混じりの、しかし、聞き覚えのある声。授業中に夢うつつの中で、そして夢の中で聞いた、あの声だった。か細く、今にも消えてしまいそうな声。
 鏡を見ると、三つ編みをしていたせいで波打った、真っ黒な髪の毛の真珠の姿が映っていた。黒縁眼鏡が若干、ずれ落ちている。真珠は蔓に手を掛け、眼鏡を掛け直した。
 その後ろに、ぼんやりと豊かな金色の髪の女性の姿が見える。

「ゆゆゆゆ、ゆーれいっ?」

 真珠がそういうのも仕方がない。
 女性の姿は輪郭がはっきりしておらず、テレビの映像がきちんと表示出来ていないような、混信している状態だ。
 ザーッと不快な音が混じる。そして、その中になにかにひびが入るような音がする。

真珠しんじゅ、の名……を持、……つ者よ』

 ジジジ……

『わた……く、──し』

 声を遮るように、チャイムが鳴り始めた。
 真珠は慌てて、トイレから飛び出した。
 結局、髪は結ぶことが出来なかった。





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