松落葉(まつおちば)/【八話】岬の風景

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 維織は深呼吸をして、再度、自分の足首を見た。くっきりと残る赤い数本のライン。普通に握られてもこんな跡は残らない。それに、お風呂に入る前までついていなかったはずだ。靴下を脱いだ時はなんともなっていなかった。
 指の跡と思われるものが残っているのは、先ほどお風呂の中で何者かにつかまれた側の足首。維織は触れられた部分が気持ち悪くて身体を洗うために持って入っていたタオルで足首をこする。つかまれた冷たさと感触を消したくてこすり続けた。
 視線を感じて、維織は手を止めて顔をあげた。璃々香がお風呂からあがってきたのかと思ったが、扉が開いた音がしなかった。風呂の出入口を見ると、やはりそこには璃々香はいない。
 気のせいかと思ってもう一度、足首をこすろうとした。
 乾いた音が脱衣所に響いた。
 維織は身体を大きく震わせ、恐る恐る、音のしたところに視線を向ける。

「いやあああっ」

 鏡にずぶぬれになった長い黒髪の女が恨めしそうにこちらを見ている。
 あわてて振り返るが、そこにはだれもいない。もう一度、鏡を見たが、そこには脱衣所の入口しか映っていなかった。
 維織は恐ろしくなって動けなくなった。
 扉が開く音がして、ようやく維織は動くことができた。

「わっ、私、帰りますっ!」

 お風呂からあがってきた璃々香に泣きついた。

「いきなりどうしたの?」

 真っ青な維織を見て、璃々香はいぶかしく思って訊ねる。

「宮下先輩、ここ、やっぱりなんかおかしいですよ!」

 昨日から続く怪異に維織の恐怖心は限界だった。

「能面は勝手に落ちてくるし、井戸から手が出てきたり髪の毛が見えたり、さっきだってお風呂でだれかに足を引っ張られて、先輩が来なかったら私、溺死してましたよ! それに、今も鏡にだれか知らない女の人が写っていたんです」

 璃々香に今までの出来事を維織は説明したが、困ったように首をかしげる。

「維織、それがね。赤塚は昨日、お父さまに呼ばれて島にいないのよ」
「……いない?」

 ということは、クルーザーがないのでここからは出ることが不可能、ということになる。それで赤塚を見かけなかったのかと納得したが、しかし。

「明日のお昼頃に戻ってくる予定なの」

 それまではここは絶海の孤島、ということになる。

「帰してあげたくても、無理なのよ。なんなら、泳いで帰る?」

 泳いで帰るなんてもってのほかだ。そもそも、ここからどれくらいの距離があるのか分からない。分かったところで遠泳は無理だ。

「わたくし、何度もここには泊まりに来ているけど、一度だってそんな変なことないわよ」

 だから大丈夫、と璃々香はそう言っているが、維織は実際、さまざまな恐ろしい目に遭っているのだ。

「お風呂の件は気のせいよ。鏡は今、眼鏡かけてないからなにかを見間違えたんじゃないのかしら」

 璃々香は優しく維織をさとし、椅子に座って落ち着くように言ってきた。維織は鏡の前の籐の椅子に腰をかける。

「あら?」

 そこで維織が手に持っているタオルに血が付いていることに気がついた。

「維織、その血はどうしたの?」
「血?」

 璃々香に指摘され、ゆっくりとタオルを見る。白いタオルをうっすらとピンクに染めるくらいの量の血が全面についていた。

「お風呂場でつかまれた足首を拭いていました」

 璃々香はお風呂上がりのバスローブに身を包んだまま、しゃがみこんで維織の足首を見る。ちょうど璃々香の胸の谷間が見えて、維織はどきどきしてきた。

「あら、こすりすぎて皮がむけてるわ。あとで青葉にお願いして、手当してもらいましょう」

 璃々香は悲しそうな表情をして、立ちあがった。

「すぐに着替えるから、ちょっと待っていてね」

 維織は痛んできた足首を気にしながら、足首をこすったタオルを洗った。荷物をまとめていると、璃々香も着替え終わったようで一緒に脱衣所を出た。

「青葉、いいところで会ったわ」

 お風呂を出た廊下で青葉と出会い、璃々香は維織の足首を見てねと伝えると部屋へ戻っていった。

「お部屋にうかがいますので、お待ちいただけますか」

 青葉は一言だけ告げ、維織たちと入れ替わりでお風呂場へと行った。維織としては一人で部屋に戻りたくなかったが、どこにも行くあてがなかったので素直に従った。
 部屋に入ると、寝起きの乱れていたベッドがきれいに片づけられていた。能面はやっぱり壁に掛けられている。維織がお風呂に入っている間に青葉が片付けてくれたのだろう。
 自分とあまり年齢が変わらないように見える青葉の優秀さに維織は情けなくなる。
 ここに来てやったことは、手ぶれ写真を撮ったこと、くらいだ。数々のあの写真を思い出し、維織は思わず、ため息がこぼれる。
 扉がノックされたので開けると、救急箱を持った青葉だった。

「お待たせいたしました」

 ベッドに腰掛けるように言われ、維織が座ると青葉はすぐに手当てをしてくれた。思った以上に冷たい青葉の指先に、先ほどの出来事を思い出し、思わず足を引っこめた。

「傷口の手当をさせていただいてよろしいですか」

 青葉の声に維織は小さくごめんなさい、とつぶやいて青葉に足首をあずけた。傷薬を塗られた時、しみたので悲鳴をあげたが、青葉は無反応だった。

「すぐに朝食の準備をいたします。失礼いたしました」

 お辞儀をして、青葉は出て行った。維織もつられてお辞儀をした。
 部屋に一人取り残され、維織は涙が溢れそうになってきた。
 心細い。怖い。さみしい。
 一刻も早く、ここから抜け出したい。
 出たくても今すぐには出られない。昨日、赤塚が陸へと戻ったのなら、一緒に戻りたかった、と今さらながらに思う。まさかこんなに恐ろしい目に遭うとは思っていなかった。
 一日我慢すれば、戻ることができる。しかし、そこまで我慢できるのだろうか。

「維織、朝ごはんにしましょ」

 扉の向こうから璃々香の声が聞こえてきた。維織は浮かんだ涙をぬぐって部屋を出た。

「今日の朝ごはんはなにかなぁ」

 極力、明るくふるまってみる。そうでもしないと、泣いてしまいそうだったからだ。

「維織はどこを見た?」

 食堂に向かいながら、璃々香が聞いてきた。

「宿泊棟と隣の能面館の一部屋と般若池と井戸です」
「あら。岬に行ってないの?」

 朝ごはんを食べたら岬に行ってみましょう、と璃々香は言うので、維織はうなずいた。あの部屋で能面とずっと一緒にいるのは耐えられなかった。
 朝食は朝から色々あったので食べられないかと思っていたが、美味しくて思った以上に食べることができた。

「しんちゃん、岬に行きましょ」
「ああ、いいぜ」

 三人は食堂を出て、カメラを取りに部屋に戻った。
 この島について宿泊棟に入った時に通った廊下を通り、外に出る。坂を下り、浜辺に出ると、桟橋にはクルーザーがなかった。

「右と左、どちらから行きましょうか」
「右!」

 真吾は手を挙げて、答えている。

「じゃあ、左ね」
「なんでだよ!」

 璃々香と真吾のやり取りを見ながら、維織は浜辺や桟橋、松の木の向こうに見える宿泊棟を撮ったりしていた。

「この岬は般若面で言えば角の部分に当たるんだよな」
「もう、しんちゃん! 維織は怖がってるんだから、そういうことは。維織、大丈夫?」

 維織は真吾の説明で泣くまいと我慢していたのだが、璃々香が心配そうに声をかけてきたことで涙が出そうになった。でもここで泣くと真吾にこの先ずっと言われるような気がしたし、なによりも璃々香に心配をかけたくない。維織は真吾の脇腹にパンチを入れ、

「乙女心を知りなさいっ!」

 と言ってやった。

「なんだよ、ちび助! 乙女が聞いて呆れるっ!」
「乙女ですよっ!」

 真吾とくだらない言い合いをしたことで泣きたくなった気持ちはどこかへと吹き飛んだ。

「足元が悪いから、気を付けてね」

 璃々香が注意をしてくれたにも関わらず、維織はこけそうになった。

「危ないっ」

 璃々香がとっさに維織の腕を取ってくれたので、転ばずに済んだ。

「ありがとうございます」
「維織はそそっかしいのね」

 璃々香は楽しそうに笑い、そのまま維織の手を繋いだ。

「あの、宮下先輩?」

 璃々香の柔らかな手の感触に維織は戸惑いの表情を浮かべた。

「また転びそうになるかもしれないわよ。しんちゃんと手を繋ぐよりはるかにましでしょ」

 真吾と手を繋ぐ、と言われて維織は思いっきり首を振った。

「りりか、なんだよその言い草っ。しかもちび助もひどいな」
「しんちゃんは女の子と見たら見境もないから駄目よ。維織は大切な部員なんですから」

 今まで見たことのない鋭い視線に真吾は黙った。
 璃々香は維織に笑いかけ、歩き始めた。維織は引っ張られるようにして歩き出す。
 三人は無言で岬まで歩いた。思っているよりうっそうと茂っている松の葉が当たって痛い。

「ほら、着いたわ」

 松の枝を払い、通り抜けた先は海が広がっていた。すっかり朝日が昇り、水面を照らしている。輝く景色に維織はしばし、言葉を忘れた。

「もっと早ければ、今日はお天気が良いから朝日が昇るのが見れたかもね」

 璃々香は目を細めながら東と思われる方向を指さしている。

「反対側を向くと、向こうの岬が見えるでしょ」

 璃々香に言われ、維織は振り返る。海の向こうに堤防のようなものが見える。松の木が生えているのがこちらから見てもよくわかった。

「本当にこの島は松の木しか生えてないんですね」

 維織は風景をカメラにおさめた。

「ほら、脇をしっかり締めて。またぶれた写真になるわよ」

 璃々香の指摘に維織はあわてて脇をしめる。真吾は一人、面白くなさそうに適当に写真を撮っていた。
 帰りも璃々香は維織の手をしっかりつかんでいた。

「反対側はやめておきましょう」
「行かないのか?」

 真吾の少し不満そうな声に璃々香は苦笑を浮かべながら、

「また松の葉につつかれたいのならどうぞ」

 足元は松の葉がかなり落ちていて不安定で歩きにくく、璃々香と手を繋いでいなかったら何度も転んでいただろう。また同じ繰り返しかな、と思っていた維織はその提案はありがたかった。

「能面館の中を維織は見てないみたいじゃない」

 能面館の最初の部屋で大量落下があってあわてて出たので、他の部屋はまだ見ていなかった。

「もうあの悪趣味な部屋は入らないとして、他の部屋を見ないで帰るのはもったいないわよ」

 あの大量の能面をもう一度見るのは確かに嫌だったが、写真に撮っていないことに気がついて、維織はあの部屋も写真に撮っておきたい、と提案したら璃々香は目を丸くして維織を見た。

「平気?」
「ちょっと怖いですけど、宮下先輩も天野先輩もいらっしゃるから」
「維織がそうしたい、というのなら行きましょう」

 三人は能面館に向かい、中へ入った。

「怖いのなら入口から撮るだけでもいいわよ」

 璃々香に言われたが、維織はへっぴり腰になりながらも中に入り、写真を撮る。素早く数枚ほど撮ると、あわてて部屋を出てきた。

「無理して撮らなくても」
「いえ。なんだか残しておきたくて」

 その時、維織はなにかを感じ取っていたのかもしれない。写真の中にだけでもこの空間を残しておきたくなった。





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