三*思いもよらない挑戦(前編)

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 あっという間に期末テストが終わり──巡に勉強を見てもらったおかげで、思っていたより成績が良かった──夏休み。
 家にいてもごろごろしているだけだからと、わたしは変わらず、学校へと通った。といっても、美術室に、だけど。
 秋の文化祭の準備をするために部員は出てきていたから普段と変わらない。ううん、むしろ、夏休み前よりも賑やかだ。
 わたしも出品する気でいたから作品の準備をして、その合間に宿題をした。
 巡も毎日、律儀に美術部にやってきてはわたしをからかったり宿題をしていた。その合間に水彩画を描いていた。

「油絵にするかと思っていたのに、珍しいね」
「たまには違うものにチャレンジしてみたくなるものさ」

 巡の後ろからのぞき込む。うっすらと下絵は鉛筆で描かれているけど、全体像を見ても完成図がまったく分からない。

「……なにを描いているの?」
「それはできあがっての、秘密」

 わたしは結局、デッサンの対象物が未だに定まらず、石膏像のアントニオを来る日も来る日も描いていた。別にデッサンだから、たとえば教室の机と椅子だったり花瓶だったりなんでもいいのは確かなんだけど、わたしはなぜか、人物にこだわった。

 夏休みの半ばのある日。
 朝、学校に行く前にお父さんとけんかをした。
 飯の種にもなりもしないクラブ活動に入れ込むのはどうなんだと言うのだ。

「絵を描くのが好きなんだから、いいじゃない!」
「世の中は好きだけではやっていけないんだぞ!」

 信じられなくて、わたしはお父さんをじっとにらみつけた。

「父さん、いいじゃないですか。好きなことだけが出来るのは、学生のうちだけなんですから」

 お母さんがわたしをフォローするようなことを言ってくれた。お父さんはそれでも気持ちがおさまらなかったのか、珍しく怒鳴りつけてきた。

「そういう問題ではない!」

 いきなり怒り出したお父さんの気持ちがまったく分からなかった。お父さんの怒りにすっかり感化されてしまったわたしは、怒鳴り返していた。

「お父さんはなんにも分かってないよ! 学校には勉強をしにも行ってるんだから!」

 どうしていきなりそんなことを言うのだろうか。

「行ってきます!」

 なんだかむかむかする。
 腹が立ったまま学校に行く気にならなくて、気持ちを落ち着けるために暑い中、わたしは土手を通って少し遠回りをすることにした。朝にもかかわらず、ちょっと歩いただけで汗が噴き出してくる。あまりの暑さに、遠回りしようと思っていたにもかかわらず、撤回して早いところ部室に行きたいと思ってしまう。
 大きく息を吐いて歩き出そうとしたら、後ろから声がした。

「奏乃」

 振り返ると、そこには巡が立っていた。

「ってか、あっちぃな。川縁だから涼しいかと思ったけど、これが草いきれってヤツか?」

 巡は上のシャツを制服のズボンから取り出し、下からあおいで中に空気を送り込んでいる。

「なんで」

 わたしの口から出た言葉は、それだけ。

「学校に行こうと思って外を出たら、見覚えのある頭が見えたから」

 この土手に来るのに巡の住むマンションの前を通った。そのルートが近いからだ。

「こっちから行く方が涼しいと思ったのに、暑いんだな。いつもの通学路がいいってことかぁ」

 知った顔に会いたくなくて、こちらを選んだのに。
 わたしは小さくため息をつき、巡に背を向けて歩き始めた。
 もう少し、一人で考えていたかった。
 巡はそのことを察してくれたのか、なにも声を掛けてこない。
 学校が見えてきた。学校の手前につけられた土手から降りる階段の一番上でわたしは一度、立ち止まる。
 野球部とサッカー部はこんなに暑いのに、元気いっぱいグラウンドを走り回っていて、大きなかけ声が響いてくる。
 毎日見ている光景。
 ここで毎日、汗を流している人たちの中の何人がこのクラブ活動が将来、飯の種になるというのだろう。

「巡は将来、なにになりたい?」

 立ち止まっているわたしの後ろになにも言わないで立っている巡に対して、質問する。いきなりの脈絡のない質問にもかかわらず、巡は珍しく、真面目に答えてくれた。

「そうだなぁ……。大学に行って、就職して好きな女と結婚して。はは、面白くもなんともないな」

 巡のことだからもっと変な答えが返ってくるかと思っていたのに、普通の返答だった。
 巡はそれだといけないと思ったのか、それとも照れ隠しなのか、茶化した声で続けた。

「小さい頃は、ヒーローになりたかったなぁ」
「ヒーロー?」

 眉間にしわを寄せて、振り返る。

「悪いヤツらをばったばったと倒すテレビの向こうのヒーローに憧れたなぁ。だけど長じるにつれ、そんな悪いヤツなんていないというのを、知っていくんだ」

 巡はそういいながらかばんを敵に見立てて、キックやパンチを繰り出し、投げ飛ばす真似までしている。

「好きってだけではやっていけないってことを知ったかな。オレも大人になったもんだなぁ」

 巡の本心がどこにあるのかは分からなかったけれど、お父さんと同じことを言っていることに、なんだか気持ちがさらに沈んだ。

「そういう奏乃は?」

 切り返され、答えられないことを知った。

「わかんない」
「まあ、普通はそんなもんだよな。将来のビジョンをしっかりと持ってるヤツなんて、ほんの一握りだ」

 そう言って、巡はわたしの真横に立つ。

「あそこで野球をしているヤツらも、サッカーをしているヤツらも、どれだけの人間が将来、プロになりたいって思ってるんだろうな」

 だけど、と続ける。

「あいつらは好きだからこそ、こんなくそ暑い中、汗を流して頑張ってるんだろ? 今はそれでいいじゃないか」

 巡にしては真面目すぎる答えに、妙に不安になる。

「よーっし、今日もアントニオを描こうじゃないか!」

 巡は
「とお!」
とかけ声を上げ、階段を駆け下りていく。
 なんと言えばいいのか分からなくて、わたしは立ち止まったままだ。

「奏乃?」
「あ……うん。先に行っておいて」

 なんだかまだ心の整理が出来なくて、階段に背を向けて、うつむく。
 巡はそのまま学校へと向かうのかと思ったのに、軽快に上ってくる音がする。

「なんだよ、どうしたんだ? なにかあったのか?」

 困ったような声に、わたしは首を振ることしか出来ない。

「気にしないで。後から部室に行くから」

 うつむいたまま、階段から遠ざかって学校の横を歩き始める。

「おまえなぁ。そんな顔しておいて、放っておけるかよ」

 変なところで面倒見のいい巡はそういうと、わたしの手からかばんを奪うと後ろをついて、歩き始めた。

「かばん、いいよ」

 奪い返そうと振り返ったら、真面目な表情をした巡がいた。そんな顔を見たことがなくて、どう反応すればいいのか分からなくなる。
 そうやって見ると、巡は整った顔をしてるんだなと気がつく。ややもすると冷たく感じる顔。近寄る者を切り捨てるような鋭ささえ持っていて、近づきにくいとさえ思わせてしまう。

「辛かったら辛いって言えばいい。悲しいのなら、素直に悲しめ。おまえは我慢しすぎる」

 巡はそう言うけど、今の自分の気持ちがよく分からない。
 悲しいのか、辛いのか。どうしてこんなにも心の中がぐちゃぐちゃなのか。お父さんの言葉に、どうしてわたしはむかむかしたのだろう。

「我慢をすることはない。はき出せばいい」

 巡に話せば、このもやもやする気持ちが解決するかもしれない。そう思って、口を開いた。

「あのね、さっき、お父さんに飯の種にもならないクラブ活動に入れ込むのはどうなんだって言われたの」

 わたしの言葉に、巡はますます険しい表情になる。

「飯の種にならない、か。まあ……間違ってはないな」

 吐き捨てるようなその言葉に、巡を怒らせてしまったのかもしれないと怖くなった。

「じゃあ、奏乃が金賞を取って鼻を明かしてやればいいじゃないか」

 巡の好戦的な言葉に、わたしは腰が引ける。

「ふふふ、いいだろう。その挑戦、受けて立つ!」
「え、いや……。べっ、別にけんかを売られたわけじゃあ」
「いーや! これはオレに対する挑戦状だ! よーっし、奏乃! これから部室に行って、作戦会議を開くぞ」

 さっきまで感じていたもやもやとむかむかはその一言で見事に吹っ飛んでしまっていた。だけどすぐには気がつかず、わたしのかばんも持って学校へと向かい始めた巡を追いかける。

「もー! どうしてそう、いつも勝手なのよ!」
「ふははは、オレは勝つ!」

 相変わらず、巡は分からない。
 必死になって、わたしは巡の背中を追いかけた。


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